入院中の陽性反応!
四国のうどん県に生まれた僕は宮崎の大学を卒業した。卒業したというかなんとかギリギリ卒業できた。
宮崎の大学へ行く目的はもちろんサーフィンだった。
毎日5時や6時に起きてサーフィン行ってお昼くらいに帰ってきて、疲れて昼寝して夜はバイトみたいな生活を送っていたので大学へ行く暇が無かった。もちろん今ではもっと勉強すればよかったなと思っている。笑
就職活動は当時単位もろくに取れていないのに、3年生時点で既に単位を取りおえている人たちにつられ自分も就職活動をした。
もちろん、大学に行かず海ばかり行っていたので大学に就職課があり、求人を教えてくれたり企業を紹介してもらったりというものも知らず、自分で就職セミナーへ行ったり当時興味のあった企業に直接訪問して(もちろん突撃で)就職活動した。
そんな中で、僕はどうせ働くなら全く言葉も土地勘もないとこで働こうという事で長崎県佐世保市で就職した。
佐世保の某ディーラで新車の販売を3年弱した後、地元に帰ってきた。
前置きがかなり長かったが、佐世保で働いていたときの上司や先輩が3人僕の地元に遊びにくると連絡があったのだ。
当時の会社を退職して、既に17年も経っているのにたま〜に、連絡をしてくれ。本当に嬉しかった。佐世保時代もだいぶ可愛がってくれたのに今もずっと可愛がってくれる。
ほんと九州の人柄が僕は大好きだ。
みかちゃんは入院しているが、どうしても行きたいと思いみかちゃんの実家の家族に相談して、子供達を預かってもらい。久しぶりに飲みに行った。
僕はお酒は別に無くてもいい人間だが、みかちゃんの入院前は付き合いやいろいろな会合の懇親会やらなんやらで週に2〜3回は外で飲みに行っていた。
久しぶりに会う当時の上司や先輩はすっかりおじちゃんになっていた。
ただ懐かしい話をいっぱいして本当に楽しかった。
今の僕の状態を少し話すと、本当に心配してくれた。
もう1日こっちを観光するとの事だったので、翌日は僕が案内する事をかって出た。
僕は代行でみかちゃんの実家へ行き翌日も子供達をお願いしますと伝え、子供達を車に乗せてそのまま代行でアパートに帰った。
子供達を寝かせ、僕も寝た。
翌日子供達を預け、先輩を迎えに行った。
まずはうどん屋巡り、僕のオススメのうどんやさん3軒巡った。
とっても満足してくれたみたいだ。
僕的には5軒くらい行こうと予定していたが、お腹いっぱいという事で鳴門に行くことになった。
高速で鳴門に向かっていると僕の携帯が鳴った。
非通知だ。
当時はみかちゃんに携帯を持たせていなかったのでテレフォンカードで病院の公衆電話から毎日僕に連絡をくれた。
1日多い時で10回くらいは電話があった。
電話に出るとみかちゃんの様子がおかしい。
助けて、もうここを出たい。早く迎えに来て!
ここ数日間落ち着いていたみかちゃんが、また別人になったような雰囲気だった。
僕は訳も分からずどしたん?と聞いてみると。
興奮状態は治らずどんどんひどくなった。
その後、看護師さんが来たのか看護師さんが電話に出て、大丈夫です。
少し調子が悪いだけです。そう言っていた。
電話の向こうで看護師さんとみかちゃんがやりとりした後、また連絡するねということで電話が切れた。
僕はしばらく放心状態だったが、病院に行きたい気持ちを抑えて鳴門に行き観光してその後徳島ラーメン食べて先輩らと別れた。
その後すぐさま病院に向かった。
病院に着くとみかちゃんの様子は急変していた。
入院前の陽性反応が出た時とはまた別で、なんというか弱々しくガタガタ震えていた。
歩き方も普通では無くて、不自然なかっこで歩いていた。
僕は昨日まではあんなに落ち着いていたのになぜ???という気持ちだった。
ドクターに話を聞くと、どうやら薬を変えたらしい。
なんでそんな事をしたのか分からないし、治療に対して知識のない人間が文句をいう訳にもいかないので。大人しく話を聞いた。
ドクター曰く、薬が合わなかったのだろうと。
みかちゃんは、外に行きたいと言い、僕は外出許可を取り病院の外へ連れて行った。
外出許可と行っても、病院の敷地内だけだった。
みかちゃんは何かに怯え、ずっとジェットコースターに乗っているみたいで気持ちが悪い、怖いとずっと震えていた。僕は抱きしめることしか出来ない。
自分の非力さ、知識の無さ、対応力のなさにほんと悔しかった。
30分の面会時間僕はその時間いっぱいみかちゃんのそばにいる事しかできない。
面会時間が終わると看護師さんにお願いしますと伝え、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
子供達を迎えに行き、心配なまま日常生活に戻った。